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    <title>オンライン原稿</title>
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    <description>ここでは日本語で執筆された原稿を公開しています。英語で執筆されたものは　Online Articles のページにあります。（註：英語と日本語のページには、別々の原稿があります。それぞれを訳したものではありません。）</description>
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      <title>百武正嗣著　「メコン川の旅人」</title>
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      <pubDate>Thu, 25 Mar 2010 21:13:47 +0900</pubDate>
      <description>&lt;a href=&quot;http://www.akiraikemi.com/ai/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%8E%9F%E7%A8%BF/Entries/2010/3/25_%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%AF%84%E7%A8%BF%E3%80%80%E7%99%BE%E6%AD%A6%E6%AD%A3%E5%97%A3%E3%80%80%E3%80%8C%E3%83%A1%E3%82%B3%E3%83%B3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%97%85%E4%BA%BA%E3%80%8D_files/DSCN0776.jpg&quot;&gt;&lt;img src=&quot;http://www.akiraikemi.com/ai/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%8E%9F%E7%A8%BF/Media/object059_1.jpg&quot; style=&quot;float:left; padding-right:10px; padding-bottom:10px; width:176px; height:132px;&quot;/&gt;&lt;/a&gt;　2010年の夏にアンコール・ワットに旅をしました。ジャングルの中に巨石の寺院が現れた時はちょっと奇声を上げたくなるほど興奮をしたものです。しかし、しばらく滞在するとその地はあまりにも観光化されていて、そこはもはやジャングルとは言えない場所であったことに気づいて少しがっかりしたのです。毎日、数万人という観光客が世界中からアンコール・ワットを訪れているのですからしかたのないことかもしれません。&lt;br/&gt;　そこからベトナムのホーチミンに飛行機で私は飛びました。ベトナム戦争を知っている世代にとっては「サイゴン」と呼んだほうがしっくりします。ここも観光地となっていて見るべきモノはありませんでした。だだ、すさまじいばかりのバイク集団とその爆音と砂埃はアジア人のバイタリテーを感じさせてくれるものでした。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　そんな場所でメコン川に出会ったのです。メコンの川の流れはゆったりとしていて川幅が広いのです。メコン川の入り込んだ支流の中に入っていくと別世界が広がっていました。何も音のしない空間があったのです。川の色は薄い褐色です。手を水の中に入れると意外と水は澄んでいて気持ちがよいのです。幾つかの国境を越えて運んできた砂が僕の手に触れて流れ去っていくのが分かりました。この時、僕は恋に落ちたのです。そのメコン川に「もう一度戻って来るよ」とささやきかけたのです。メコン川には愛が流れていて僕を愛してくれるのが感じられたからです。&lt;br/&gt;　その日からしばしばメコン川の流れや静けさを思い出しています。あの静寂な川の流れと色は僕の心をかき乱すのです。しばらく会えない女性に思いが募るように日本に戻ってからも僕はメコン川の流れに恋焦がれて会いたくなるばかりでした。&lt;br/&gt;そのような折にテレビの画面にメコン川と人々の生活が放映されました。その地の人々は一様にメコン川を「愛している」と語っていたのです。「そうだよな」とそれを聞いて僕はひとりで納得したものです。メコン川は「母なる川」と呼ばれ、幾つかの国境を越え、人種を超え、歴史を超えて人々に｢愛｣を贈り続けているのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　2010年の秋に池見陽さんと僕でコラボ・ワークショップを持つ機会がありました。鹿児島の人たちがセッティングしてくれたのです。その理由は互いに「もっとも近い」ことだそうです。フォーカシングがゲシュタルトに近いのでしょうか。ゲシュタルトがフォーカシングに近いのでしようか。そのどちらなのか分からりません。鹿児島の人たちに聞いてみると「そうではなく」て、池見さんのフォーカシングと百武のゲシュタルトが互いに「近い」のだそうである。&lt;br/&gt;　そんなこともあって、彼の近著「僕のフォーカシング=カウンセリング」創元社を読む機会を得ました。この本は、鹿児島グループが池見陽さんを招待して、彼のフォーカシングを受けた時の記録が元になっています。池見陽という人間が「伊丹空港を出発して鹿児島でワークショップを終えて再び伊丹空港に戻る」までのプロセスを小説風に構成していて、彼の遊び心とそこに彼の人生と哲学が織り交ぜてありました。&lt;br/&gt;　フォーカシングをジャズの演奏に例えながらフォーカシングは何処に行こうとしているかと彼は問いかけます。その問いかけはフォーカシングを学んでいる人たちに静かに日本刀のように詰め寄っていきます。さらに精神分析との相違を明確にしながらも以外にも現代の精神分析の人々が近づいてきていることに率直に微笑んでいるのが伝わります。この本はカール・ロジャーズとジェンドリンがともにジャズの即興を楽しみながら踊っている舞台を読者にも堪能させてくれることでしょう。&lt;br/&gt;その演奏会の先には実はフォーカシングこそがロージャーズのカウンセリングを発展させていることを哲学的、理論的に指摘していきます。このようなことが出来るのはジェンドリン氏の愛弟子である池見さんをおいて今の日本ではいないでしょう。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;彼の本を読みながら僕の脳裏にはフォーカシングとゲシュタルトの方向についての問いかけが浮かんできたのです。&lt;br/&gt;「フォーカシングは一体何処に行こうとしているのだろうか」。&lt;br/&gt;「ゲシュタルトは一体何処に行くのだろうか」と。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;ゲシュタルト療法では「気づき」ということに焦点をあわせていきます。個人が生きていくために自分の中にある羅針盤＜気づき＞に意識を向けるのです。その気づきは＜からだ＞のセンセーションを伴います。それはフォーカシングではフェルトセンスと呼んでいるものに近いものでしょう。&lt;br/&gt;池見さんの表現を借りて言えば、『フェルトセンスとは何か。。。＜からだ＞に感じられた、「感じたられた意味」をフェルトセンスと言う(P63)』ということになります。ゲシュタルト療法では『＜からだ＞に意識を向けてもらいます。そして、充分に意識を向けていると「ある感覚」に気づきます。その「ある感覚」を充分に＜経験する＞ことをしてもらうのです。そうすると「ある感覚」の意味に＜気づく＞瞬間があるのです』ということになります。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;さらに＜からだ＞に感じられるフェルトセンスに触れると、どうして変化が生じるのだろうか(P70)。という問いかけに…..『ジェンドリンは、これに対して明確な見解を示している。気持ちはどうして変化する、という問いよりも「気持ちはどうして変化しないのか」を問わなければいけない。……フェルトセンスはいつも変化の過程の中にある。』からだと書いています。&lt;br/&gt;同じ問いかけをしてみましよう。＜からだ＞に感じた「ある感覚」に触れると、どうして変化(気づき)が生じるのでしょうか。フリッツは明確に答えています。「＜気づき＞とはいつも変化するプロセスそのものである。もし、気持ちや感覚が留まってしまっているとしたら充分に＜経験する＞ことを避けているか、止めているからである。」と。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;このような思いを感じながら読み進んでいった時に、あるメコン川の風景が見えたのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;昔々、メコン川に渡し舟がありました。旅人は広いメコン川の遥かかなたに見える川岸に魅せられて集まってきました。その湖のように広いメコン川には二つの船着場がありました。ともに木造で作られた小船があります。&lt;br/&gt;ところがこの渡し場はお互いに遠く離れた場所にありました。そんなわけで旅人は偶然に出会ったどちらかの渡し舟に乗ることになるのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;一つ目の船着場にはフォという名前の船頭がおりました。&lt;br/&gt;二つ目の船着場にはジーと名乗る船頭がおりました。&lt;br/&gt;この二人の男はとても癖のある人間のように感じられました。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;ある日、ひとりの旅人がやって来て「メコン川を渡りたい」と言ったのです。フォという名の船頭は黙ってうなずきました。旅人が舟に乗ると船頭は一つの櫂（カイ）を旅人に手渡しました。&lt;br/&gt;「あなたの行きたい方向にこぎなさい」&lt;br/&gt;「メコン川はゆったりと流れています」&lt;br/&gt;「急がずに自分の力で櫂（カイ）をその方向に向かってゆっくりとこいでください」&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;そのように船頭は旅人に伝えると舟の後ろに立って艪(ロ)をゆっくり握りました。&lt;br/&gt;フォと呼ばれる船頭は旅人が櫂(カイ)をこぐのに合わせて、ゆっくりと舵をとっていきました。&lt;br/&gt;旅人はメコン川の流れを楽しみながら舟に乗っていました。やがて櫂（カイ）をこぐことに疲れ手を休めました。そこから見える景色を眺めるとまったく新しい風景が旅人の目に飛び込んできたようです。&lt;br/&gt;「あ～、ここまで来てみると私の行きたい川岸はあの丘だ」と最初の時と違う世界を指差しました。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;フォと呼ばれる船頭は旅人が新しい風景に魅力される度に方向を変えても静かにメコン川の流れに沿って小船の舵をきっているだけでした。&lt;br/&gt;やがて小船は対岸の岸辺に着きました。旅人は対岸の地に足をつけると「あー、おかげで旅の疲れがとれたようだ」と船頭にお礼を伝えて立ち去って行きました。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;同じころ、もう一人の旅人がジーと名乗る船頭の船着場に立っていました。&lt;br/&gt;旅人は「あのメコン川のかなたに見える丘に向かって進んでくれ」と言いました。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;船頭は無言のままうなずいて二つの櫂（カイ）を船におきました。その一つを旅人に手渡して言いました。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;「あなたの目指す丘に向かってこの櫂（カイ）でこいでください」&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;「私もあなたの横に座って櫂（カイ）をこぎましょう」&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;そのように言ってジーと呼ばれている船頭は旅人の横に座りました。二人は黙って互いの櫂（カイ）をこぎ出しました。旅人は目指す丘に向かって櫂(カイ)をこぎ出しました。しかしメコン川の流れに逆らうことは出来ずに押し流されそうになると船頭が微妙な櫂(カイ)の裁きで小船をあやつりました。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;しばらくするとジーと呼ばれる船頭は旅人に「座る場所を互いに代わりましょう」と座る位置を変えるように言いました。旅人は櫂（カイ）をこぐ一方の手に疲れを感じていたので喜んでその提案を受け入れました。旅人は反対側に座ると新しい風景が広がっていることに気づきました。メコン川の対岸のある方向を見つめて、「私の行きたい丘はあの丘だ」と新しい世界を指差しました。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;しばらくすると旅人は「今度は舟の先でこいでみたい」といいました。ジーと呼ばれる船頭は黙って小船の後方に移動してバランスを保ちました。しばらくすると「私の行きたいところはあの丘のふもとだ」と新しい世界を指差しました。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;岸辺に着くと旅人は「あ～、旅をする力がわいてきた。ありがとう」と言って去っていきました。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;メコン川に住む人々はその丘が聖なる場所であることを知っていました。誰が名づけたのが知りませんが、その聖なる丘の陽が沈む西側をフォーと呼び朝日が昇る東側をジーと呼ぶようになりました。</description>
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      <title>第六章より　僕のフォーカシング＝カウンセリング：ひとときの生を言い表す</title>
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      <pubDate>Sun, 24 Jan 2010 19:17:08 +0900</pubDate>
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      <title>「はしがき」僕のフォーカシング＝カウンセリング：ひとときの生を言い表す</title>
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      <pubDate>Sun, 24 Jan 2010 19:03:54 +0900</pubDate>
      <description>&lt;a href=&quot;http://www.akiraikemi.com/ai/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%8E%9F%E7%A8%BF/Entries/2010/1/24_%E3%80%8C%E3%81%AF%E3%81%97%E3%81%8C%E3%81%8D%E3%80%8D%E5%83%95%E3%81%AE%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0%EF%BC%9D%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%EF%BC%9A%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%81%AE%E7%94%9F%E3%82%92%E8%A8%80%E3%81%84%E8%A1%A8%E3%81%99_files/image_1.jpg&quot;&gt;&lt;img src=&quot;http://www.akiraikemi.com/ai/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%8E%9F%E7%A8%BF/Media/object061.jpg&quot; style=&quot;float:left; padding-right:10px; padding-bottom:10px; width:176px; height:132px;&quot;/&gt;&lt;/a&gt;名曲はいつも誰かの演奏だ&lt;br/&gt;——フォーカシング技法からの脱却&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　ジャズの名曲「オータムリーブス」——「枯れ葉」と訳されている。マイルス・デイビスが演奏する「オータムリーブス」、ビル・エヴァンスが演奏する「オータムリーブス」、チック・コリアが演奏する「オータムリーブス」、スタン・ゲッツが演奏する「オータムリーブス」——同じ曲でも、演奏者によって違った雰囲気で聴く者を包み込んでくれる「オータムリーブス」。この名曲について、こう考えてみたことはあるだろうか。演奏者がいない「オータムリーブス」はありうるだろうか、と。それは楽譜の上にのみ存在し、五線紙上の記号に過ぎない。僕たちが味わいをもって体験する「オータムリーブス」は、五線紙上のスコア（楽譜）ではない。生きた名曲として体験される「オータムリーブス」は、いつも「誰々の演奏するオータムリーブス」だ。&lt;br/&gt;　カウンセリング、心理療法、セラピーといった臨床心理学領域の多くの書物に紹介されている心理療法は、演奏者がいない曲になっていないだろうか。つまり、それらの書物は、楽譜として曲を紹介し、解説している。たとえばてみれば、それらは「ラ・シ・ド・ファ、ソ・ラ・シ・ミ、ファ・ソ・ラ・レ、シ・レ・ドー・ラ」みたいに楽譜の上の決まりごとを概説し、メロディ上にアクセントがくるところが「ほら、ファ、ミ、レ、ドの順に並んでいるでしょう」といった曲の特徴を解説し、マイナーセブンスからメジャーに移るところがきれいだ、といった音楽理論上の解説を施しているようなものかもしれない。僕はまず、これを問題提起したい。&lt;br/&gt;　僕が専門に研究、実践しているフォーカシングやカウンセリングでも同じことが言えそうだ。多くの書物は「クライアント」の特徴を記述し、これは曲の研究のようになってしまっている。事例Ａ――「オータムリーブス」、次に事例Ｂ——「ブルームーン」、次は事例Ｃ——「イパネマの娘」——というように、楽譜上で事例を検討しているような側面がないだろうか。あるいは、曲が変わっても共通する決まりごとを解説している——たとえば、ジャズで「ブルーノート」と呼ばれる三度目の音を半音下げた音を使う、というのと同じように、カウンセリングではクライアントの「自己実現傾向」に注目する。「この事例では、ほら、こことあそこと、ここに見られるでしょう」といったような、理論からみた楽曲研究のようなものになっていないだろうか。さらに、フォーカシングやカウンセリングの実践については、生きられ、体験される「演奏」以前にテクニックを解説して、「フォーカシングでは、このようにフェルトセンスに触れる」と示すなど、「ジャズでは四分音符はこのようにアクセントを付ける」と「楽譜上」で示しているのと同じではないだろうか。&lt;br/&gt;　しかし、これらの解説は「演奏」ではない。それが、僕の指摘するところだ。書店で手にすることができる多くのフォーカシング関係の著作は「誰々が演奏するフォーカシング」にはなっていない。もしジャズについて知りたい方がいたならば、僕は最初からジャズの音楽理論やジャズのフレージングの特徴を解説する書物をお薦めすることはしないだろう。まずは「演奏を聴く」ように勧めるだろう。同じように、カウンセリングやフォーカシングのことを本当に知りたい方がおられたら、最初から理論やテクニックを解説する書物をお薦めするのではなく、まず体験してみることをお勧めするだろう。ジャズならばライブを聴きにいくのが一番だが、その機会がなければ、ＣＤをお薦めするだろう。カウンセリングやフォーカシングでも同じことだ。実際にカウンセリングやフォーカシングを体験する機会がなければ、「誰々が演奏するフォーカシング」の著作をお薦めしたい。本書は、そのような意図で執筆されたものである。「僕が演奏するフォーカシング」を、本書を通してお届けしたい。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　本書は必ずしもカウンセリング初心者にのみ向けられた著作ではない。ベテランの音楽奏者も、自分以外の奏者の演奏を聴くと、いろいろな特徴や技や考え方を見て取ることができるだろう。それはたいへん勉強になるものだ。同様に、「僕のフォーカシング」をベテランの心理療法家、カウンセラーやセラピストが見ると、初心者にはまったく見えない、いくつもの点が見えてくるだろう。本書は、初心者にもベテランにも向けられたものだ。&lt;br/&gt;　「僕のフォーカシング」を執筆して言い表していこうとすると、それは「僕の」であるから、僕の人生を開示することになってしまう。本書はフォーカシングやカウンセリング、精神分析といった内容を取り上げてはいるが、それは実際には、僕の「ひとときの生」を表したものだ——本書は、僕の人生の中の二日間を舞台にしている。その意味では、本書で「僕」がテーマになってしまうことは避けられず、それは心理学の書としてのみならず、僕の人生の二日間の伝記的、メモワール的意味合いを帯びてくる。心理学とはまったく異なった文脈で本書を理解することも可能だろう。&lt;br/&gt;　さらに「僕の」二日間の生は、いろいろな他の方々の人生と複雑に絡みあっている。僕の生を言い表すことは、僕以外の人の生を言い表すことにもなっていく。二日の間の僕の連想や回想には多くの方々が登場している。&lt;br/&gt;　本書では、僕が「演奏した」フォーカシングの実際の面接記録が三つ紹介されているが、これらは鹿児島カウンセリング研究会の二日にわたるワークショップに僕が招かれたときに行われたものだ。鹿児島カウンセリング研究会では、それらの面接を録画して、そのデータを提供してくれた。そのデータは、関西大学大学院で、沈黙の秒数までもが含まれる、正確な逐語記録として作成された。その記録を読みやすい形に僕が編集し、僕が面接中に感じていたことを編み込んで執筆された章がそれぞれ三つある。鹿児島カウンセリング研究会の方々には、これほどまでに自分たちの生を開示してくださったこと、そしてそのデータを公開することを前提に提供してくださったことに心から感謝したい。&lt;br/&gt;　記録のおかげで、読者は「僕が演奏する」カウンセリング・フォーカシングの実際場面を読み、追体験していくことができる。しかも、そこでの一瞬一瞬の中で、僕は何を観て、何を感じて、何に応答しようとしたかも解説が加わっている。カウンセリングを追体験して、しかも、それを舞台裏からみるような楽しみ方ができるだろう。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　本書では「僕が演奏する」カウンセリング・フォーカシングを理論的に考えてみている部分がある。フォーカシングの考案者で、僕の大学院時代の恩師であるユージン・ジェンドリン先生の考え方を長年にわたって研究していると、何が「僕の」で、何がジェンドリン先生の考えなのかがわからなくなってくる。それは、ジャズ・トランペット奏者、フレディー・ハバードの演奏の中にクリフォード・ブラウンという別の奏者と同じフレージングが聴こえたり、同じくトランペット奏者、エディ・ヘンダーソンのフレーズがときどきマイルス・デイビスと同じような感じに聴こえたりする現象に似ているだろう。本人たちには、何が師の影響で、何が独自のものかを識別するのは極めて困難なのである。&lt;br/&gt;　そこで本書では、僕は日本語で理論を考える、という新しい試み行っている。つまり、日本語で表されている述語の相互関連性は、「僕の」発想だと言えるのではないだろうか。本書の題目、「ひとときの生を言い表す」も日本語の発想だ。心理療法論に詳しい読者は、僕の理論的考察を楽しむことができるだろう。ちなみに、現時点では僕は本書以外ではこれらの日本語を基にした理論考察を発表していない。また、フォーカシングの中だけで理論を考察するのではなく、古典的精神分析を築き上げたフロイトの発想と対比させて、僕が自分の心理療法論を考え進めている一面も紹介されている。&lt;br/&gt;「僕が演奏するフォーカシング」は実際には二日間の鹿児島コンサートのようなものだ。本書が始まる大阪伊丹空港の出発ロビーから、本書が終わる伊丹空港の到着口まで、この二日間の行事に舞台裏から僕に同行して旅することに読者の皆様をお誘いしたい。&lt;br/&gt;</description>
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      <title>生野照子著「リストカットの向こうへ」（新潮社）を読んで</title>
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      <pubDate>Mon, 20 Jul 2009 18:47:25 +0900</pubDate>
      <description>&lt;a href=&quot;http://www.akiraikemi.com/ai/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%8E%9F%E7%A8%BF/Entries/2009/7/20_%E7%94%9F%E9%87%8E%E7%85%A7%E5%AD%90%E8%91%97%E3%80%8C%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E5%90%91%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%B8%E3%80%8D%EF%BC%88%E6%96%B0%E6%BD%AE%E7%A4%BE%EF%BC%89%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%93%E3%81%A7_files/315631.jpg&quot;&gt;&lt;img src=&quot;http://www.akiraikemi.com/ai/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%8E%9F%E7%A8%BF/Media/object062.jpg&quot; style=&quot;float:left; padding-right:10px; padding-bottom:10px; width:169px; height:127px;&quot;/&gt;&lt;/a&gt;「作家さんにとって、どこまで自分を出すか、というのは難しいことなんですよね」&lt;br/&gt;ある大手出版社の編集者が僕に言っていたのを思いだす。&lt;br/&gt;「作家さんによってはね、主人公の性別を自分と反対にするんですよ。その方が書きやすい、って」&lt;br/&gt;そう彼女は続けた。&lt;br/&gt;僕は頷いてこの編集者の話を聞いていた。気がついてみると自分が作品にですぎている、それが嫌になってくる、なんとか書き直してみる、でも結局はまた気がついてみると、やぱり主人公に自分がですぎている。&lt;br/&gt;生野照子先生も同じような苦労をされたのではないかと想像しながら「リストカットの向こうへ」（新潮社）を読ませていただいた。生野照子先生といえば小児科出身の心療内科医、とくに摂食障害の治療については心身医学関係者では知らない人はいないはずだ。生野先生が神戸女学院大学教授（現名誉教授）だったころ、僕は同じ学科で仕事をさせていただいた。&lt;br/&gt;その生野先生が小説を書いた、という噂を神戸女学院大学の卒業生から聞きつけ、すぐにアマゾンで本書を手に入れた。山田洋次監督（映画）の推薦文が帯に入っていた———「限りなくノンフィクションに近い力強いフィクションなのだ」と。「う〜ん」と唸った。僕が手がけているノンフィクションをフィクション化した小説（まだ出版社が見つからない未公開作）の類似書かもしれないと思ってすぐに読み始めた。&lt;br/&gt;想像の通り、主人公は小児科の女医さんだった。この「吉岡先生」というキャラクターはどうしても著者生野先生と重なってみえてくる。本書の第一部は生野先生が臨床の現場をみせてくれているような感覚で読むことができた。&lt;br/&gt;「おかしいぞ、この患者『森川洋子』はただのIBS（過敏性腸症候群）じゃないぞ」&lt;br/&gt;「そうそう、僕もこの場面だったら同じことを言うだろう」&lt;br/&gt;「困ったな、患者の母親しか来院しないのなら、どうするかな」&lt;br/&gt;「その母親も何か臭いぞ」&lt;br/&gt;そんなふうに、まるで治療チームの一員として同じ患者をみているような気分になって読み進んでいった。&lt;br/&gt;しかし、本書は「第二部」で大きく展開していく。実際の臨床ではあり得ないことが次々と起こってくる。中学を卒業して何年もたった患者「洋子」を小児科の外来で診る、自宅から直接電話でやりとりをする、患者の家を訪ねて行く、ラスト・シーンのリストカットなど「治療の枠組み」が大胆にも崩れ去っていく。そう、第二部からはフィクションの世界に深く入っていくのだ。著者、生野照子先生は、第二部では自分とは重ならない「吉岡医師」を描き出すことに成功している。その創造力に僕は「う〜ん」と唸った。&lt;br/&gt;IBS、引きこもり、家庭内暴力、リストカットと症状が重くなっていく主人公「洋子」と治療者「吉岡医師」の出会いの中に流れるテーマは何か。それは一言でいうと、「愛されること、愛すこと」を求めて生きる女性の力強さだと僕は読んだ。フィクションとして表現されているからこそ、それがパワフルに伝わってくる。&lt;br/&gt;本書について一つだけ気になる点がある。それは本書を未だ書店の棚で見ていないことだ。新潮社は同じ時期にだした「半島へ、ふたたび」（蓮池薫著）の宣伝には力を入れているが、本書をどこまで読者の手に届けようとしているのだろうか。医療関係者や臨床心理関係者のみならず、広く一般読者に届けたい一冊だ。&lt;br/&gt;</description>
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      <title>Newspaper 心の渇きに潤いを：フォーカシング国際会議を終えて</title>
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      <pubDate>Fri, 12 Jun 2009 13:49:19 +0900</pubDate>
      <description>渇いた心に潤いを：フォーカシング国際会議を終えて&lt;br/&gt;北海道新聞夕刊６月５日&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　「胸がもやもやする」といった。「からだ」にうすうす感じられるさまざまな「感覚」に焦点を当て、言い表しながらそこに潜む意味を探っていくことを「フォーカシング」（焦点づけ）という。臨床心理学などで使われている。これを通して豊かな知が開かれていくことも多い。この現象に注目したのは米国の哲学者、ユージン・ジェンドリン博士である。&lt;br/&gt;　その研究と応用について話し合う第21回フォーカシング国際会議が５月中旬、兵庫県淡路市の夢舞台国際会議場で、アジアで初めて開催された。&lt;br/&gt;　フォーカシングの研究や実践は米国に次いで日本が活発だ。「間」を大切にするなど、日本人がはぐくんできた心の文化にはフォーカシングと共通するものがあるのではと、日本開催への期待は高かった。実際、世界17カ国から274人が参加し、65件の研究発表がなされるなど、実際に過去最大となった。&lt;br/&gt;　日ごろ、相談業務やカウンセリングに当たる人へのフォーカシングの効用などを考えたのが、関西大学大学院の平野智子さんの発表「セラピスト・フォーカシングを用いた対人援助職支援の試み」だった。心理療法家などさまざまな職業の人が参加した会場では、実際に平野さんが提示した手順に従って、参加者がペアになってフォーカシングを行った。&lt;br/&gt;　児童相談所で心理職として働く高地知子さんは、このところ千人もの対象者とかかわっているという。非行、児童虐待、発達障害などの子どもたち、その親たちの相談が絶えない。相談に来たある人のことを思うと、胸に矢が刺さったような痛みを感じるという。&lt;br/&gt;　高地さんがその「からだの感じ」を言葉に出してみつめていくうちに気づいたのは、痛みの奥に「温かく柔らかい三日月形」（高地さん）のような「からだの感じ」が存在することだった。それに触れていると安心できるそうだ。それは何を意味しているのか---。高地さんのペアの相手をつとめる韓国の朱恩宣博士が見守るなか、自分の「からだ」に問いかけ続けた。&lt;br/&gt;　香港の張家興博士は結婚など夫婦のカウンセリングに携わっているが、相談にくる夫の方とは距離を感じることが多い。それは石の壁のようだった。その石の壁を感じていると、夫が船をこいで、自分から離れていくイメージが浮かんでくるという。&lt;br/&gt;　ペアの相手だった米国のドラリー・グリンドラー・カトナ博士が、「そのイメージを、からだで感じてみると、どんな感じでしょうか」と聞いている。それは悲しみの感じだった。それに触れた途端、張さんは気づいた。「この人といつか離れて行く悲しみを、自分はすでに感じていて、その『悲しみ』に触れないで済むよう、自分の方が壁を作っていたのかもしれない」&lt;br/&gt;　からだの内側でうすうすと感じていることがさまざまに浮かび上がり、発表後、カウンセラーやセラピストのみならず、介護に携わる人や医師、看護師、教師にもこのような機会は必要だという意見が挙った。相談者の心の渇きに向き合うのが対人援助職の人たちだが、一方で自分たちも心の渇きを感じ始め、潤いを求めている。&lt;br/&gt;　平野さんの共同研究者である筆者はこう解説した。「来談者と面接しているときに、カウンセラーの方が苦しくなったり、胸の中に重いものを感じたり、『からだ』の感覚を感じることはよくあることだが、このような『からだの感じ』は、来談者との関係が本当はどうであったらよりよいのかを知っている」&lt;br/&gt;　カウンセラーが感じているものをフォーカシングの実践で言い表すことに初めて注目したのは九州大学の吉良安之教授だ。平野さんの発表はこれを対人援助職に拡大して生かそうという試みだった。&lt;br/&gt;　会議ではパキスタン・アフガニスタンなどの紛争地域の心のケア、トラウマのケアの実例をはじめ、フォーカシングに関する幅広い研究発表が行われたほか、会議場そばの茶室では、毎朝、参加者が自主的に組織した「朝の瞑想会」も開かれた。会議に出席した浄土宗と曹洞宗の僧侶が世話役となって行われ、英国人、アメリカ人の禅指導者、牧師、修道会のシスター、それに各国のカウンセラーらが参加した。&lt;br/&gt;　宗教、国籍を超えて、渇いた心に潤いを与える五日間の国際会議だった。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　池見　陽（いけみ・あきら）関西大臨床心理専門職大学院教授。臨床心理士、医学博士。第二十一回フォーカシング国際会議実行委員長、著書に「心のメッセージを聴く」（講談社現代新書）など&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;</description>
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