オンライン原稿

 

こころ は「分析」できない

 

【この原稿は「ひとときの生を言い表す」という題名で『セルフ・コントロール』第166号(日本心身医学協会)に掲載されたものです。】



「何が正しくて、何が間違っているのか」という判断はそう簡単なものではない。「真」と「虚」を分かつのは論理だけなのだろうか。いや、最近の哲学では、そもそも「真実」など存在しない、といったことが論議される今日この頃である。

にもかかわらず、僕が本誌で「精神分析は間違っている」と主張をしたのは事実だ。読者の注目を集めようとして、少し強めの表現にしたのだった。しかし、それが効を奏したのか、ありがたいことに本誌から再度の原稿依頼があった。そこで、今回は僕の主張をより鮮明に書き表してみたい。その中で、古典的精神分析は「間違っている」という主張は、あながち「間違っていない」ということを僕は主張したい。そして、僕が最近、考えつつある新しい発想についても言及してみたい。


心のパラダイム

人は物事を考えるために、ある枠組み(パラダイム:発想様式)を使って考える。その枠組みの中では、いろいろな主張が正しいと妥当化される。しかし、その枠組みそのものを疑ってみたらどうなるのだろうか。また、発想の枠組みは、発想したい事柄に対して適切でなければならない。事柄を適切に言い表すことができない発想の枠組みを「間違っている」と呼ぶことにしておこう。

さて、人々が一般的に心理学的事象に対して用いる発想の枠組みには「間違い」が多い。簡単な例を挙げてみよう。「ストレスが溜まっている」という発想だ。僕は「頭が固い」と言われるが、この発想の枠組みは「間違い」だ。

「最近、私、ストレスが溜まってて…」

「え!ストレスが溜まっている? どこに溜まっているの?」

「えつ?!」

「ストレスって液体じゃないし、物質じゃないから溜まらないよ。胃袋に溜まるわけないじゃない。」

「(ムッ)…」

といった、感じの悪い会話をしてしまうかもしれない。でも、確かに、ストレスは液体じゃないから「溜まる」という表現は「間違っている」し「ストレスは溜まるものだ」といった発想の枠組みも「間違っている」。さらに、「ストレスが溜まっている」という発想の枠組では、その解消法は「吐き出すこと」になるのかもしれない。しかし、嘔吐しようと思っても、本当は吐き出すものなど何もない。だから、「吐き出す」ことは実際にはできないし、これでは本当の意味のストレス解消にはならない。

「ストレスが溜まっている」と感じている人が、本当に感じていることをよく見つめて、よく言い表してみると、きっと違うことが明らかになるだろう。「ストレスが溜まっている」をより正確に言い表すと、「不快に感じるような状況や人間関係が続いている」ということになるかもしれない。そうならば、「解消」は人間関係を改善することだったり、状況や相手とのかかわり方を変えることだったり、新しい人間関係を充実させることなのかもしれない。「吐き出す」ということとは、全然ちがっている。

さて、フロイトの古典的精神分析は、上記のような簡単なことではないが、発想の枠組みを「間違えた」と僕は思っている、今は。かつては、フロイト派の精神分析を勉強して、それに「はまって」しまって、抜け出せなくなったのが僕の苦悩だった。フロイト精神分析を批判することは、それ自体が「防衛」であったり、「転移」であったりして、フロイトを批判すればするほど、その枠組みから抜け出せない僕がいることに気がついた。しかし、いつの間にか、ジェンドリン教授の哲学授業などを受けているうちに、発想の枠組みを脱ぎ去ることができた。そして、いま、別の発想の枠組みをゆっくり考えつつある。もちろん、ジェンドリン先生の哲学を土台にして。

フロイトが発想の枠組みを「間違えた」という僕の主張を簡単に言ってしまうと、次のようなことになる。「精神」には、「分析」という発想の枠組みは適していないのだ。

精神分析が発展するにつれて、人の精神について、いくつもの貴重な観察がなされてきた。それらの観察は尊重されなければならない。しかし、それらの観察を体系的に位置づけて、理論づけ、理解する枠組みの根底には「分析」という発想様式がある。くり返しになるが、人の精神には「分析」という発想は相応しくない。僕がひっかかっているのはこの点だ。



「無常」の存在

人はしばしば、こころがモノ(物体)であるかのように考えたがる。「『性格』はどうやってできるの?」とか、「こころのメカニズムはなに?」といった質問をよく聞く。しかし、性格はモノじゃないから、「どうやってできたのか」は、答えようがない。そして、こころは「メカ」じゃないから、メカニズムはない。産業革命、そしてその直後に誕生したフロイトが創始した思想以来なのだろうか、人々は人間のことでさえも、産業製品のように考える癖がついてしまったと僕は思っている。

「分析」という発想の枠組みや「分析手法」は、ある程度、固定した(静止した、安定した)物体や物質に対して行うものである。血液型はかわらないから、分析して判定できる。しかし、気分によって血液型がころころかわっているのなら、分析の意味がない。

人は自分の性格を固定して、分析したがる。まず自分は「神経質」だと決めつけて、その神経質な性格が固定的なものだと思い込んで、それが何によってできたのかを考えたがる。しかし、よく見ると、人はある状況では神経質でも、別の状況や別の人たちといるときには、まったく神経質でなかったりする。本当は、人のあり方は固定していない。

生あるものは常に動いている。80センチの高さの小木など存在しない。二週間後には81センチになってしまっている。生あるものはいつも、それである、と同時に、次に向かって動いている。哲学者ジェンドリンの言葉でいうならば、生きている存在は “is-and-implying” -―それでありながら次を指ししめているのだ。

僕はこのところ、夏はニューヨークでジェンドリンやアン・ワイザー・コーネル、ケビン・マケベニューなどと一緒に、フォーカシングをサマースクール(夏期講習)で教えている。僕が東洋人だからか、僕のクラスを履修する人には仏教に関心がある人が多い。僕よりもずっと、仏教に詳しい人たちだ。僕のデモンストレーションを見たり、講義を聞いたりして、彼らは「アキラの発想は仏教そのものだ」、「パーフェクトな仏教瞑想の例だ」などと言う。そう言われても僕にはあまりよくわからないので、「どういう意味で仏教なの?」、と聞いてみると、彼らは「無常」と答える。

生きているものは同じであることはない。人や気持ちや観念は無常の存在なのだ。反対に、従来の分析的な発想様式は、人間の無常の実態を見ようとしない。むしろ、固定的な側面を探し出して、それを分析の対象としているのだ。性格検査がいい例だ。性格検査は人の生きている有り様や人が自分について思うことの固定的な側面だけを浮き彫りにして、そこだけを「分析」しようとする。たとえば、性格検査では「あなたは今、空腹ですか?」といった設問はない。これは移りかわっていく実態だから、こういうことは聞かないのだ。しかし、実は人間存在は全体として移り変りの中に居る。


こころは一つであり全体である

人の「精神」に対して「分析」が適切でない、という理由は他にもたくさんある。分析は、より小さな単位に「分解」して説明することを意味している。たとえば、ある液体を分析して、その結果をみると、「アルコール何%、水分何%、鉄分何%、」というように、より小さな単位に分解して「成分分析」がなされる。だけど、人のこころは、より小さな単位に分解できないし、人はいつもひとつの全体として生きている。

しかし、分析の発想様式でフロイト精神分析はこころを「イド」「自我」「超自我」といった3つの小さな単位に分解して考えた。それなりに説得力のある構造のように思えるが、よく考えてみると、これらの「成分」は実体としては存在しない。それらは「たとえ」に過ぎないのだ。「イド」は「本能的エネルギーの貯水池」と表現されるが、そのような「貯水池」は人の中には存在しない。さらに、フロイトは本能を分解して、2つの成分―エロス(生)とタナトス(死)―に分けた。しかし、本能とは、もっと大きな複雑性や全体性をもつ「ビルトイン」機能で、簡単に2つに還元できないと僕は思う。

このことについては、精神分析家ユングによっても示されていたと僕は思う。フロイトに精神分析を習ったユングだが、ユングがフロイトに反発した点の重要な部分はここにある。「ビルトイン」機能は二つの本能に絞れない。ユングは「元型論」を展開し、象徴に表されている人間の精神には、古代から共通したモチーフなどがあることを示したのだ。生物学的本能だけではなく、文化や芸術やそのモチーフさえも「ビルトイン」なのだ。

このことをもっと広げてみよう。ジェンドリンはしばしば動物行動学を例に挙げる。ケージの中で育ったリスにクルミを与えると、リスはケージの鉄の床を「掘る」動作をして、そこにクルミを「埋め」ようとする。しかし、このリスはケージで育っていて、実際の土は見たことがないのだ! つまり、リスの心身には、「土」という環境や自然界がすでにビルトインされているのだ。心の内には、外の世界がある。生あるものは独立したユニットではなく、世界・自然界・環境・文化・言語・人間関係と一体なのだ。こころは一つであり、それと同時にすべてなのだ。精神の「内部構造」を分解するのではなく、宇宙や世界や自然とひとつである人間の有り様が言い表されなければならない。


宿命は決定されていない

分析では「変化の説明ができない」、という問題点もある。5という現象が、2という要因と3という要因でできていたと分析して(5=2+3)、それが正しければ、5はずっと(生涯)5のままであり、5は勝手に6や7に変化することはできない。これは、社会科学や、もしかすると科学全体における分析の問題点といえるのかもしれない。変化の説明には「突然変異」のような不思議な概念をもってくるしかなくなってしまうのだ。

しかし、よく考えてみよう。もともと現象を固定して、変化しないものとして分析したのだから、その結果、変化が説明できないのは、あたりまえなのだ。いろいろな文献にでてくるが、最近の物理学はこの問題に気づいていて、まったく新しい発想の枠組みを用いているそうだ。(僕は、物理学に対して苦手意識があって、直接は読んでいないが…)

一般の人も、こころの事象に関して、よくこの発想のトラップにはまってしまう。自分の性格を「形成した」諸要因を「分析」した結果、一生涯、自分の性格はかわらないと思って苦しんでしまうのだ。フロイトの古典的精神分析に対して、昔から指摘される「決定論」の問題だ。

いろいろなビルトイン機能がありながら、そして多くの情報をもちながらも、人は前に進む。その道には出会いやハプニングがあり、過去に得た情報は常にアップデートされている。そのアップデートによって、進む道もまた、かわってくる。人がどのように生きるかは、精神の「成分」やそれらの間の「力動」や過去に「性格を形成した」と思われる諸要因によって、決定されているわけではないのだ。


人は時間にいるのではなく、「とき」を生きる

最後に、「分析」という発想の枠組みがどうして「精神」に適していないのかについて、もう一つの側面を紹介しておこう。これについては、いつかもう少し詳しく書いてみたいと思っている。そのうち、僕のサイトの「オンライン原稿」(http://www.akiraikemi.com/ai)にあがっているだろう。

人をモノととらえて分析すれば、その結果は必ず過去を指し示す。つまり、産業製品を分析してみると、それは過去に遡って製造工程をみることになる。仮に、「この紅茶はどうやってできたの」と聞いてみると、その答えは:「セイロンというところで育ったお茶の葉っぱを誰かが摘み取って、どこそこの作業場に運んで乾燥させて、小さく切って、ティーバッグに詰めて、それを箱にいれて、イギリスの別の会社の人がそれを検品して買っていって…君がお湯を沸かして、コップにティーバックを入れて、お湯を注いで…」となる。これ全部、過去の工程だ。同じように、人の精神を分析すると、その製造工程は乳幼児期に辿り着く。

もっと深く考えてみよう。ここで示されている時間の概念は、過去→現在→未来と一直線に並んだリニアな時間だ。この時間では1時間は均等に60分に刻まれ、1分は60秒に刻まれている。この時間は、人が作った「モノサシ」としての時間だ。しかし、実は人はモノサシを作る側にいて、モノサシの中に生きているわけではない。

実際に人が生きる時間はモノサシのように均等で等間隔ではない。僕は昨日、新大阪で新幹線にのって、京都を過ぎたあたりでこの原稿に手を入れ始め、あっという間に「品川」という車内放送が聞こえた。「え!もう品川?」と驚いて、慌ててパソコンのシステムを終了しないといけない慌ただしさの中で東京駅に到着した。しかし、同じ新大阪―東京間の2時間半は、永遠に長く感じられることもある。人は均等で等間隔の時間を生きていない。

これを表現するのに、日本語にはとても適切な言葉があると僕は思っている。「とき」という言葉だ。「休息のひととき」の「とき」は10分でも1時間でも1日でも「ひととき」なのだ。新幹線に乗っているときは、僕にとって「原稿執筆のひととき」であって、モノサシとしての時間とは無関係に体験される。

人はいつも、「とき」に居る。「執筆のひととき」、「読書のひととき」、「講義のひととき」、「団欒のひととき」などである。そして、たとえば「団欒のひととき」を生きている中で、時刻が気になったときには、「団欒のひととき」から一瞬、抜け出して時計というモノサシを見なければならない。その間、団欒のひとときは中断される。つまり、基本的には、人は「とき」を生きていて、時間や時刻を参照する。もともと時間の中で生きているのではないのだ。

「とき」は等間隔ではないというばかりでなく、過去―現在―未来という等間隔の一直線の進行をしていない。「とき」には、一直線の進行はない。「旅行にいくことを考えているひととき」では、旅行先にいる自分を想像してみる。旅行先の気候を考えて服装や手荷物の大きさなどを想像する。これはモノサシ(時間)で言えば未来だ。その気候に合う、どんな服を買っていたかを思い出そうとする。モノサシで言えばこれは過去だ。また、旅行に一緒に行く相手を思う。その相手と交わした会話を思い出す。これはモノサシで言えば過去だ。旅行先でその相手とどのようなかかわりになるのかを想像する。これはモノサシで言えば未来だ。そして、過去に自分が相手に言ったことを反省して、違うかかわりを生み出そうとする。これはモノサシでは、過去を修正した未来だ。

このように、人が暮らす「とき」には、過去、現在、未来の仕切りはない。そして、人は過去、現在、未来を往来しながら、いつも前に進もうとしている。「前に進もうとしている」というのは、モノサシで言えば未来だ。どんな瞬間にも人は「未だ」(未来)に向かっている。

「もうすぐ東京駅だ。パソコンを終了しないと」(未来)。

「東京駅から丸ノ内線だった?」(未来)

「うん、どこ、会議は?本郷三丁目?何分かかる?その間に昼めし食べられる?」(未来)

「東京駅はゴチャゴチャしているな。そうだ、丸ビルの方がいいレストランがあるよ。」(過去を参照した未来)

こんな具合だ。自分の思考をモニターしてみるとよくわかるだろう。いつも「未だ」を向いている。かなり落ち込んで過去の失敗ばかりを思うときも、実は未だを向いているのだ。それは、「この失敗をどうリカバーしたらいいのだろうか」とか「今度は失敗しないように」という具合だ。

人は「とき」を生きる。そして生きることは前に進むことなのだ。


*****


うん、やっぱり精神は「分析」できない。精神分析は「間違っている」という主張は、あながち「間違って」いないと思う。でも「分析」に代わる人間理解の発想様式はあるのだろうか。「とき」に生きる無常の存在としての人間をどうとらえるのだろうか。本稿の中にも何度か出てきたが、僕は人の生とか「こころ」について、「言い表す」(explicate) ということを試みたい。これは哲学者ディルタイやジェンドリンが目指している方向と軌を一にしている。言い表すなかに、その人の、あるいは人間の、理解がたちあらわれてくるのではないだろうか。

(東京から新大阪行きの新幹線にて)


 

2008/03/12

 
 
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